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序章 魁/さきがけ

  1. 2013/06/01(土) 22:09:08|
  2. 頂き物|
  3. コメント:3

 二字口を中心に俵が廻らされた、円形の空間。
 その内と外は全くの別世界。舞台であり合戦場でもあるそこの雰囲気が他と異なるのはいつもの事だが、その少年には、今はまた特別その違いが実感されていた。
 高い天井と抑えられた照明の下、場内の空気が重く、粘っこく、肌に纏わりついて刺激してくるように感じられるのは、会場を覆い尽くす独特の熱気のためだけではない。
 肌を刺すようなピリピリとした感触の正体は、周囲に満ちる闘志と緊張、そして今か今かと出番を待つ猛者達の昂ぶりによる物…。土俵に注がれる相撲取り達の視線が、熱意が、そこを中心に根本から空気を変えている。
 稽古場の土俵とも違う。
 地元の大会の土俵とも違う。
 出稽古で上がった他所の土俵とも勿論違う。
 場所が何処だろうと、設けられて相撲取りが集えば、そこがそのまま特別な舞台となる事を、少年は何となく感じ取った。
「これが…、全国…。夢じゃねえ、本物の全国…」
 少年は、知らず知らずに呟いていた。その抑えられた声に宿るのは、闘志か、緊張か、はたまた夢が叶った感慨なのか…。
 全国の土俵…。夢にまで見た大舞台がすぐそこにある。自分は今、そこに上がる資格を得てこの場に立ち、その順番を待っているのだと改めて認識すると、武者震いで一度大きく身が震えた。
 緊張はある。上体を捻って腰を回し、気負って体が硬くなってはいないか確かめたが、緊張は適度な物で、体が強張るほどではない。
(よし…!)
 眼光鋭く、気合満面の凛々しい表情をしているその少年は、大柄なドーベルマンだった。






 普通の同年代と比べてかなり大きい体は、相撲取りとしても標準以上。上背も肩幅も十二分にあり、胸は分厚く、腰も太い。
 ドーベルマンという種を鑑みれば平均を逸脱して骨太で、太り肉ではあるものの、筋肉の束が万遍なく、分厚く編み込まれた体躯は、頑健にして重厚。深い黒と鮮やかに濃い茶に塗り分けられた被毛と相まって威圧感がある。
 少年の名は、賀屋タケル。二年生にして同級生に先駆け、全国出場の切符をもぎ取った彼は、仲間達や地元の好敵手達の期待と羨望を背にして臨む初の大舞台を前に、竦む事も、怯む事もなかった。
 全国まで上れたからもうこれで満足。…などという落ち着きではない。
 勝ち上がりたい、確かな戦果を手にしたい。そんな望みを強く持ちながら、なおも落ち着き払って土俵を見つめている。
「ついてるな。ボーナスゲームだぜ」
 一つ上のマネージャーが、緊張しているのではないかと案じてタケルにそう耳打ちする。
 選手も兼務するカモシカはなかなかに体格が良かったが、タケルと比べればやや小柄で、背の高い後輩相手には少し鼻を上げて囁かなければいけなかった。
「ボーナス…すか?」
 軽い響きがあるその言葉に、タケルは眉根を寄せる。
 微かに、「危うい」と感じた。この場の空気に馴染み、臨戦態勢に入った気持ちで聞くと、違和感を覚えるほどに軽い言葉…。
「データがあんまり無いんだけどな。初戦の相手、雑魚だぜ?」
 鵜呑みにして気を緩めてはならないと、タケルの頭の隅で警告が上がりかけたが、マネージャーが後輩を案じて続けた言葉は、微かな警戒の狼煙を千々に飛ばしてしまう。
「運良く地元の三位に入った…、というか、何かの間違いで全国入りしたような相手だ。はは!」
 タケルの頭の隅で、チリッと疑問の火花が生じる。
 間違いで辿り着けるほど全国は近いのか?そんなに選手層が薄い地区などあるのだろうか?と。
 だが、その疑問を自覚する前に、またしても先輩の言葉が微かな火花を消してしまう。
「ほら、あのコーギーだぜ?お前と同じ二年だが…、中身は違うな。それでもまぁ、まぐれとはいえ全国入りだ。一生に一度の思い出になるだろうさ。ほんのちょっと羨ましいかもな」
 口元を軽く弛めて顎をしゃくるマネージャー。その視線を追って顔を動かしたタケルは、土俵を挟んだ反対側を見遣った。
 そこには、熱戦を眺めているウェルシュ・コーギー・ペンブローク…、控室や開会式でも見かけた、個人戦に出場する選手の姿があった。
 あちらの部員なのだろう、ジャージ姿のアビシニアンや、一年生と思われる柴犬達に囲まれているその少年は、やけにむっちりしていた。
 顎下にも頬にもたっぷり肉が付いた顔は愛嬌があり、他の選手と比べるといささか気合が入っていないようにも感じられる。種族柄元々ずんぐりした体躯は、脂肪が分厚くつき過ぎてまん丸い。
 普通の中学生と比べれば大きい体だが、相撲取りとしては平均的な上背。丸みを帯びている分だけ目方があるものの、着込んだ脂肪のせいでボリュームがあるだけの体に見える。
 腕も脚も太い。だがタケルとは違って、逞しいというより贅肉で弛みがちな四肢。せり出た腹は大きいが、腹吊りをするような大柄さでもなければ、腕にも腰にも力強さを感じない。
 緊張を感じていないのか、そのコーギーは傍らのアビシニアンと何か話しながら笑みを浮かべていた。
 自分と同じく、三年が上位を占拠する中、他に先駆けて全国の土俵入りを果たした、見知らぬコーギー。
「駄デブだ。物の数でもないだろ?名前は…」
 カモシカの囁きに頷く事も無く、何処か場違いに感じられるその選手を見つめていたタケルは、マネージャーが名簿を捲ってその選手の名を口にするかしないかといったタイミングで、
(…あ…)
 丁度アビシニアンに何か言われたコーギーが、二人揃ってこちらを向き、軽く眉を上げた。
 タケルが対戦相手だと判ったらしいコーギーも、少し瞼を下ろし、眼を凝らして土俵越しにこちらを見つめている。
(…?)
 顔が向き合い、視線が完全に重なったその瞬間、タケルは遠いコーギーの瞳から目が離せなくなった。
(何だ…?)
 初めて経験する、奇妙な感覚。
 一目で強者と判る者を目にした時に感じる緊張…とも少し違う。
 面白い、興味深い選手を目の当たりにした高揚…とも少し違う。
(アイツ、何か…)
 心臓が少し鼓動を早め、トクントクンと耳元に心音が届く。
 胸筋の上側から首元へ、ジワリと微熱が伝い上がって来る。
 背中からうなじへ、ソワソワとこそばゆい感触が這い登る。
 コーギーが目を逸らし、アビシニアンと何か喋り始めても、タケルはなかなか視線を外せなかった。
「羊…?あ〜、と…。何てヤツでしたっけ?」
 一瞬気が逸れて名前を聞きそびれていたタケルの問いに、マネージャーのカモシカは「羊山だよ」と応じる。
「「ヒツジヤマリョウヘイ」。名前からして牧歌的と言うか何と言うか…」
 カモシカは軽い調子で含み笑いを漏らし、校名を口にしたが、
「…え?なに…学?どこすか?」
 先輩を見遣ったタケルが眉根を寄せる。全国に上がって来ている割には、聞かないどころか記憶にすらない校名だった。
「立子館学園。ま、知らなくて普通だろ?」
 不勉強だったか?と恥じらい、耳を倒したドーベルマンに、マネージャーは肩を竦めて苦笑いした。
「私立中学だな。たぶん偏差値高めのボンボン校だろ。今まで聞いた事が無いからこれといって戦績が良いわけでもないし、他の選手も出ていない。あの駄デブが残れたのはたまたまだろうな」
「そうすか…」
 たまたま。運よく。そんな事を強調する先輩の言葉に気のない相槌で応じ、タケルは自分達の方を見ている対戦相手に視線を戻す。
 その直後、タケルは一転して眉を上げ、目を大きくした。
(…っ!)
 一時目を離している間に再びこちらを向いていたコーギーが、笑みを浮かべている。
 土俵を挟み、距離がありながら、コーギーが浮かべたその笑みがどんな物か、タケルにははっきり判った。
 その表情は、先程までの物とはまるで違う。
 目を半眼に細め、口の端を吊り上げ、挑発するような冷笑に彩られた顔…。
 愛嬌があるとぼけた表情は完全に消え去り、打って変わってふてぶてしいまでの不敵な面構えになった相手を…、
(あの野郎…。俺なんか余裕だって言いてえのか…?)
 タケルもまた顔付きを獰猛な物に変え、鼻面に皺を刻んで睨み返す。
 期待を寄せる後輩の横顔に浮いた、覇気のある頼もしい表情を見遣り、カモシカは発破をかけた。
「アイツなら楽勝だ!肩慣らしのつもりで軽く捻ってやれ!」
「…オス…!」




―さて、次は二年生同士の対戦です。同級生に先駆ける形になったふたりですね―
―これは珍しいですね。二人とも二年生で、しかもすぐ隣の地区同士ですか―
―賀屋君は地元でも注目の選手という事で、去年も一年生ながらベストエイトまで食いついた猛者ですね。良い顔付きと体付きをしています―
―体格にも恵まれている上によく鍛え込んでありますから、背丈以上に大きく見える選手ですね。こういう選手は伸びますよ―
―対する羊山君は…、あ〜…、こちらは…、アンコ型…の選手ですね。重心が低い―
―そう…ですね。肉付きが良い選手です。少し体が重たそうではありますが…。どういう選手なんでしょうね?―
―えぇと…。去年は地元大会で二回戦進出を果たしています―
―そうですか―

 そんな解説が聞こえている訳ではないが、場内の大半は、土俵上で仕切る二頭を同じように見ていた。
 相撲取りとして申し分ない体格をした、大柄なドーベルマン。
 対するは、背丈に比して肉ばかり多い、脂肪過多なコーギー。
 身長はコーギーの方が頭半分ほど低く、筋肉量にも差がある。体重差はさほどでもないが、実際には贅肉によっていくらか埋まっているだけで、タケルの体躯とは筋肉の量がまるで違う。
 相手と向き合うタケル本人ですら、リラックスさせようと先輩が吹きこんだ言葉が頭にこびりつき、勝てて当然の相手だと考えている。
 先程コーギーを目にした瞬間に覚えた微かな違和感は、全国の土俵に立った高揚感と、溢れんばかりの闘志によって、既にかき消されてしまっていた。
 仕切り線を挟み、構える両者。
 脂肪過多でムチムチタプタプしたコーギーは、構えると窮屈そうに見える。だが、その顔に浮かんでいるのはタケルを小馬鹿にするような表情。ふてぶてしいまでの不敵な笑み…。
 敵意満面で睨まれるよりも闘志が掻き立てられるコーギーの顔を、タケルは鼻息も荒く至近距離から睨みつけた。
 鼻の上に細かな皺が無数に浮き、唇が捲れあがって鋭い牙がギラリと覗いたタケルの顔付きは迫力があり、気が弱い者なら正視も躊躇う猛々しさ。
 しかしその眼光を真正面から浴びせられているコーギーは、余裕すら窺わせる笑みを浮かべたまま。軽薄に細めた挑発的な目も、小憎らしく吊り上がった口元も全く崩れない。
(ふん…!肝っ玉は一丁前か。間近で向き合ったら縮こまるかもって思ったんだけどな…)
 どうやら挑発的な態度は薄っぺらなハッタリではないらしい。そう感じたタケルの中でいよいよ臨戦態勢が整い、耳に届いていた周囲の雑音がふっと遠退く。
 立ち合いの一瞬に備えて神経を研ぎ澄ませ、刹那の合を逃さないよう心身共に構えたタケルは、その太く逞しい両脚に溜め込んだ力を解放する瞬間を、息を整えて静かに待ち…。

―当たりました。これは激しい!―
―速いですね賀屋君―
―羊山君が圧し込ま…っと、止めました。両者マワシに手を…―
―これも速いですね―
―両者左下手で組みますが…、止まりません。下手っ…いや引き落とし!賀屋君堪えました―
―良いタイミングでしたが、賀屋君が立派ですね、引かれても落ちない。確かに引き落としは手ですが、引き手を優先的に狙って行くようでは良い選手になれませんから…―
―羊山君、腰を引いて賀屋君の上手を取らせません。両選手共に自分の得意な型に持ち込みたい所…、下手を取り合ったまま膠着しています。…どうでしたか?今の立ち上がり…―
―賀屋君の当たりが凄いですね。体格も良くて速いし重い。上手く変わられなければ逃がさないし、そうそう当たり負けしそうにない重みを感じました。羊山君は良く堪えましたね。体勢は五分に持ち直せましたし、ここからの運び方次第ではまだ判ら…―

 立ち合いは、タケルの方が僅かに速かった。
 しかし、いざぶつかり合って組んでみれば、コーギーが一方的に不利という訳でもない。
 タケルが左下手を取って引き付け、得意の型に持ち込もうとした瞬間に、コーギーは素早く下手を取り返した。そうして当たりで競り負けて譲った隙間を、お互いの腰の間へ緩衝帯として残し、腰を引いた姿勢での膠着状態を作り出していた。
 さらにコーギーはそこから引き落としを仕掛けたが、タケルは前傾姿勢でもこれを堪えて見せ、自分と相手の筋力差を把握する結果となった。
(この体勢での引き落としでこの程度…。腕力だけなら勝負にならねえな)
 多少不利な体勢に持ち込まれても挽回は簡単。ここは強引に攻めても問題ないだろう。そう考えたタケルは、崩れを防いだそこから、腰を決める事すら考えず反撃に出る。一方的に攻め立てて沈める腹積もりである。
 受けて立つとばかりにコーギーも右でマワシを取りにかかり、二頭は土俵中央で激しく攻め手を争う格好になった。
 お互いに左下手を取ったまま、腰をやや引いた前傾で牽制し合うこの体勢は、地味に体力の消耗を強いる。腰を割って落とす安定した姿勢とは違い、一挙手一投足が腹筋と背筋を通常時以上に酷使する。たちまちの内に両者の息が乱れるが、それでも膠着状態は長引いた。
(くそっ!しぶてえ!)
 強引に攻め立てるタケルが圧しているようにも見えるが、呼吸の乱れはドーベルマンの方が大きく、やや手数が控え目で守り気味なコーギーの息は比較的静か。強引に出ながら攻め切れないが故に、タケルの消耗だけが早いペースで進んでいる。
(くっ…!何だコイツ?何だか、やり辛く…、ねえか…!?)
 苛立ちと息の乱れがドーベルマンの集中を鈍らせ始めると、それを待っていたようにコーギーが動きを変えた。
 上手を警戒するようにずっと引いていた腰を、素早い摺り足で寄せた左脚に乗せて前へ出し、下手マワシを取っているタケルの左腕に被せて右上手を得る。深く指を噛ませ、簡単には切られないようにしっかりと。
 この唐突な転調からの上手取りと腰寄せに、タケルは反応し損ねた。逆に左下手を警戒して左脚を送り込み、自らコーギーと腹を合わせに行く形になっている。
 普段通りのつもりでいるタケルだが、実は僅かに精彩を欠いていた。
 堪えたとはいえ相変らずの前傾姿勢。組んだ直後に仕掛けられた下手投げが頭の隅にこびりつき、無意識の内に注意が左下手に引っ張られている。
 引き落としが落とし得るのは、相手の体だけではない。決まり手にはならなかったコーギーの引き落としは、タケルの注意を見事に引き落としていた。
 たった一つのその布石が、タケルの攻め手や判断、そして反応を僅かに狂わせている。
 しかし…。
(左四つ…!望むところだ!)
 タケルの目がギラリと光る。不意を突かれて遅れを取ったが、相手の上手マワシはガラ空き。
 背中寄りで深く取れば得意の相撲で捻り潰せる。幾多の強豪を沈めた大技で。
 タケルの決め技は強烈さ、派手さ、豪快さを兼ね備えている。まだ見ぬ強敵達に「見たか!」と己の存在を刻み込むにも、全国初戦の景気付けとしても、打って付けとなる激しい投げ手だった。
(右上手…、届くぞ!掴んだら速攻で播磨だ!捻り潰すっ!)
 上手さえ取ればすぐさま終わらせられる。引っ付いて粘るだけの肥満コーギーなど物の数ではない。
 …はずだった。



―両者依然土俵中央。腰を合わせて組み合ってはいますが、相変らず賀屋君が攻勢です―
―攻め切れていませんが、これはその内に力の差が出てきますね―
―しかし羊山君!粘り強い選手ですね。攻め立てられながらも耐え凌ぎます―
―どうも賀屋君からすると上手く噛み合わない相手のようですね―
―…あ…。賀屋君?賀屋君が下がってますか?―
―え?―

 カハァッと、顎を上げて苦しげに息を吐き出したタケルの右腕が、宙を掻いて空振り、肉付きが良いコーギーの脇腹に当たる。
(う…上手…!上手が…!?)
 タケルの鼻先から汗が落ちた。コーギーの腕が腋の下に入り込んでおり、上手を取ろうとする右腕の邪魔になっている。
 先程から繰り返し何度も、タケルが手を伸ばす度に体勢が微妙に変化したり、脚の位置が動いたりして、タイミングの悪い空振りや、測った距離が変化しての不発が相次いでいた。
(上手が取れねえっ!?)
 取れそうで取れない。届きそうで届かない。
 いよいよ焦りを覚えながら、タケルがそこへ気を取られている間に、コーギーが短い呼気と共に下手を鋭く引く。ドーベルマンは慌てて左足を外へ擦り、踏ん張りを利かせたが…、
(や、やべっ…!)
 引き手をフェイントにしたコーギーに、内から踝をぶつける格好で足を送り込まれ、食い縛った牙の隙間からブシュッと息を吹いた。
 コーギーの本命は、お互いの間にあった隙間…半歩分の土俵を奪う事。
 膂力と体格で上を行くタケルを相手に、不用意に足を踏み出すのは危険だが、初手で布石に用いた引き落としをフェイントにして警戒させる事で、この隙間を難なく占拠できた上に、相手の足位置を乱す事にも成功している。
 それは、その一端だけを見れば些細なアドバンテージだが、両者が組んで以降全ての行為が、この通りコーギー有利に傾き、取り組みが進んでゆく。
(お、おかしい…!何かおかしい…!くそ!上手が…!)
 苛立つドーベルマン。パワー、リーチ、ウエイト、スピード、全てにおいて少しずつ上回っているはずのタケルだが、ペースは完全にコーギーが握っていた。
 踏ん張りを利かせようとした足に、内からガスンと足をぶつけられ、力が十分に入る位置からずらされる。
 体格に物を言わせて圧し返し、僅かに下がったコーギーに腰を寄せようとすれば、美味しい位置に足が残してあり、踏み込み切れない。
 何より、右の腋下に入ってくるコーギーの左腕が邪魔で、得意の右上手は一向に取れないまま…。
 しっくり来ない。上手く噛み合わない。一手一手が思った通りには行かず、僅かにずれて歯痒い。
 最初こそ微かに「やり辛い」と感じるだけだったタケルだったが、寄り合い圧し合いが長引くにつれ、それが無視できないほどの異物感に変化してゆき、余力の差は徐々に開いてゆき…。

―腰が…―
―ああまた…、寄せ返されました…―
―長い取り組みになりました。ペースが狂ったんでしょうか?賀屋君、攻め切れません―
―なかなか自分の相撲が取れませんね―

 解説の声にも違和感を覚えているような戸惑いが生じ始める。
 普通なら、流れが生まれ、大きく動くはずの局面になりかける度に、コーギーの動きがタケルの攻め手をくじき、阻み、狂わせ、自分有利に事を運ぶ。
 その、薄紙を一枚ずつ加えてゆくような積み重ねは、一手毎に着実に蓄積され…。

―賀屋君の動きが悪くなってきましたね?―
―かなり息が上がっていますね…―

「ど、どうしたんだよ賀屋…?」
 取り組みを見守るマネージャーのカモシカは、やり辛そうな後輩の姿を凝視しながら、拳を握り込んでいた。
 ドーベルマンが選ぶどの攻め手も、コーギーに紙一重で防がれる。解説も、タケルも、彼の仲間達も予想していなかった流れが、そこにあった。
 むきになって攻め立てても成果は上がらず、いきり立ち、焦り、力み、タケルは消耗してゆく。まるで、濁流に飲まれた者が、無理にもがいて自滅するように…。
(な、何だ…?何だこの取り組み…!何だコイツの相撲…!?強くねえ!そんなに力もねえし、速くもねえ!なのにっ…!)
 コーギーの相撲は巧みだった。
 タケルには一切ペースを握らせず、攻め手の全てを際どい所で止め、逆に自分は着実に揺さぶりをかけて、危なげのない相撲を取っている。
 コーギーは、試合運びの巧みさと、相手の得意手を封じる技能にかけて、ドーベルマンに大きく差をつけていた。それが二人の体格と身体能力の差を完全に埋めている。
 総合力で一歩及ばず、自分の相撲を全く取らせて貰えないタケルは、喘ぎがどうにも堪え切れなくなると、じっとり濡れた広い背に、それまでとは違う汗をかいた。
(何なんだこいつはっ…!?)
 疲労の限界が近い事に加え、劣勢を実感して脂汗が滲み出る。
 気付けば余力の差は歴然だった。無理に攻め立てて効果が上がらなかったタケルは、既に隠しようもなく息が乱れ、要所要所で邪魔をしつつ着実に相手を追い込んできたコーギーの呼吸は、上気しつつもまだ規則正しい。
 おまけに、タケルが踏ん張る足には、もはや普段のような力が入らない。
(す、スタミナ切れ!?そんな事…!?)
 がふぅっ、がふぅっ、と疲労を強調するような乱れ息は、まるで水面にようやく顔を出し、かろうじて浮いている溺れかけのような有様。長丁場とはいえ疲労が濃過ぎる。調子がおかしい。それがまたタケルの焦りを掻き立てる。
 ふいごのように上下する腹に、ドフンッと、柔らかなコーギーの腹が勢いよく当たった。
 まずいと思ったその時には既に遅い。股を割り、腰を低く決めて寄せ、腹を合わせたコーギーが、摺り足でずいっと密着するまで寄せて圧す。
 一見すると左四つ。だが、コーギーの腕が相変らず巧みに邪魔をしており、タケルに右上手を取らせない。
 させじと踏ん張ったタケルの脚は、しかし太腿の正面がピクピク痙攣し始めており、膝を曲げたままでは力が入り難い有様。
 強引に攻め立てたツケが、ここで致命的なまでに効いてきた。
(くっそ!まだ…!)
 圧し返そうとするタケルと、寄りに入ったコーギー。
 意地の踏ん張り。土俵中央やや東寄りで腰を決めた、超密着戦の圧し比べ。だが…。

―羊山君が圧しています―
―僅差ですが、賀屋君は盛り返せないようですね―

 激しいがぶり合いに場内が沸く。解説も目を見張る拮抗した寄り合いは、スタミナを僅かに多く残していたコーギーが有利。
 大きくせり出た腹を密着させ、腰を低く決めて下から押し上げるように寄せるコーギーのがぶりで、体重と筋力で優っているタケルの腰が浮かされる。溺れて弱ったドーベルマンには、もはや濁流を正面から受け止める余力が無い。
 堪え切れないと察したタケルは、深く取った左下手を頼りに寄りへ抵抗し、焦りながらも必死に腕を伸ばす。
(う、上手っ!上手がっ…、遠いっ!)
 しかし届かない。得意の手は、逆転できる一手は、あと少しで届きそうなのに、実際には遠過ぎる。
(何で俺は…、こんな奴にっ…!?)
 もしも、情報を耳から吹きこまれなかったなら。
 もしも、これが合同稽古の中の一番だったなら。
 もしも、侮る事無く相手を見定められていたら。
 流れは、少し違った物になったのかもしれない。
(こ、こんな…!こんなはずじゃ…!)
 土俵をどれだけ譲ったかは感覚で解る。もう後が無い事は見なくとも判る。
 がぶられ、腰が浮き、踏ん張り切れないまま後ろへずれてゆく足が、程無く俵にかかった。
「がひゅっ!う…上手っ…!ハッ、ハッ、上手ぇ…!」
 息の隙間に混じるその声が自分の物だと、タケルは気付けない。起死回生の上手マワシは、指先が届きそうなのに遠く…。遠く…。

―賀屋君、腰が崩れました―
―残していますが…、これは厳しいですね―
―羊山君実に巧みです―

 俵を頼りに土俵際。のっぴきならない剣ヶ峰。踏ん張ったものの押し込みに耐えられず、踵が俵の上へと滑り上がった。
 激しく寄り立てていたコーギーの腰は静まったものの、相変らず柔らかな腹がやや下方から密着して圧をかけている。
 最後の鬩ぎ合いは、互いの肩に顎を乗せ、密着した形となった。
 タケルのアキレス腱が、膝裏が、太腿の裏が、腰が、背がピンと筋を張り、かろうじて堪えているが…。
(うっちゃり行くか!?いや駄目だ…!右手がマワシに届かねえし、コイツ寄せが妙に巧い!こんな背が伸びた格好じゃ、体開いた方をスカされちまう!)

―賀屋君よく堪えています―
―上手を取って反撃に出ようとしていますが…、羊山君が上手いですね。取らせません―
―油断しませんね。土俵際まで追い込んでも慎重です。…あ!―

 ムフーッと、コーギーが吹き出した鼻息が首筋と肩を撫でる。必死に上手マワシへ腕を伸ばすタケルを嘲笑うように…。
 激しい呼気と心音が間近で鳴っているタケルの耳は、
「……………ね…」
 コーギーの顎が動き、何か言われたような気がして、ピクリと震えた。
 鼻で笑ったような、微かにリズムが変わった呼気…。
(舐めんなっ…!舐めんなぁああああああああああああああああっ!)
 欠けそうなほどきつく食い縛った牙が、擦れてバリッと音を立てる。
 だが、そうして力を振り絞り、伸ばした腕は…、
(…っ!と…どか…ねえっ…!)
 指の腹をマワシの上部に掠らせて、コーギーの背をベチンと叩いた。



 渾身の、意地の、最後の攻勢は、しかし届かず、なりふり構わぬ一手に全てを賭けたタケルの体勢は、右腕を伸ばした分だけ腰の左側が浮く形で崩れて…。

―あっ!―

 ぐらっとタケルの体が揺れ、後方へ傾く。
 俵に爪先をかけたドーベルマンは、柔らかな腹で最後の一押しを受け、土俵上に居場所が無くなった。
「う…、上手…マワシィっ…!」
 なおも求めるように右腕を伸ばしながら、タケルは寄り切られてドスッと尻餅をつき、勢い余って背中で転げた。

―寄り切りです。羊山君が寄り切りました―
―とても上手い選手ですね。丁寧な相撲を取りました。賀屋君ははぐらかされる格好になって、有利な形に持ち込めませんでしたね―
―地味…というと聞こえは悪いですが、巧みで堅実な…。…あ…―

 解説が漏らした小さな声は、誰にも届かない。
 コーギーの資料に向けられたその目が大きくなった理由も、瞳に映った名にも、驚きの理由にも、誰も気付いていない。
 昨年の地元大会。確かにこのコーギーは二回戦で敗退し、褒められるような戦績は残していない。
 だが、その二回戦でコーギーが相対して敗れた相手は、当時三年生の地元横綱…。二回戦負けという昨年の結果だけでは、コーギーを量るには妥当と言えなかった。
 一方、汗まみれの背中をべったり土色に染め上げたタケルは、俵の外で後ろ手をついて身を起こす。
 長い取り組みで疲労困憊。マワシはぐっしょりと湿って変色し、尻や脚、地に触れた部分は大量の水気で土を吸い付けている。
 タケルは尻餅をついた自分の下半身をしばし見つめた後、ゆっくり視線を上げて行った。
 俵の内で土を踏み締める、ソックスを履いたように白い足。
 タプタプに緩んだ贅肉を帯びた、締まりのない太腿。
 マワシが食い込み、ひどくきつそうに見える腰回り。
 生白く、だらしなく見える、横ミツに肉が乗った腹。
 腋の下までラインが繋がる、弛んで下がり気味の胸。
 たっぷり贅肉がついてまん丸く、首と繋がった顎下。
 その上に乗る愛嬌があるフォルムの顔は、しかし…。
 ぜぇひゅうと激しく乱れた息で腹を上下させ、舌を出して喘ぎながら見上げたドーベルマンは、
「っぷふー…!」
 大きく息継ぎしてから自分を見下ろしたコーギーの、得意げに口の端を吊り上げた笑みを見つめる。

―君、こんなもんなの?―

 そんな声が聞こえたような気がして、タケルはギリリと牙を噛み締める。
 夢にまで見た大舞台、全国の土俵…。
 同級生達に先駆けて全国出場を果たした両者の内、賀屋タケルは初戦で敗退し、羊山リョウヘイは周囲の予想を裏切って勝ち残った。
 勝てると思った相手に、自分の相撲をろくに取らせて貰えず、終始ペースを握られたままの惨敗…。
 俵の外から見上げるタケルに尻を向け、コーギーは悠々と引き上げる。
 その肉付きの良い背が、余裕を窺わせる後姿が、ドーベルマンの瞳と脳裏に深く焼き付いた…。




【次章に続く】
本作は『とらいぶ!』びぃさんからの頂き物です。
よろしければ拍手レスやtwitter、コメント等で、御感想をお寄せ下さい。(の∀の)

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コメント

うおおー!!
読んでてすっごい興奮しましたわ!
実際の相撲もこんな感じなんだろうなぁって考えるとかなり熱くなりますね! 続きも楽しみに待ってます!!
  1. 2013/06/01(土) 22:40:34 |
  2. リヒター
  3. [ 編集]

勢いがあって一気に読んじゃいました(o^^o)
相撲とか普段は見ないんですが、わかりやすいし面白かったです。続きがめっちゃ気になります!
  1. 2013/06/01(土) 23:12:52 |
  2. アモルファス
  3. [ 編集]

リヒターさん>
実際は緊張とアドレナリンで、もうワケ分かんないんじゃないですかね。
稽古を繰り返すと、そんな混乱の中でも体が動いてくれるとか…?

アモルファスさん>
話が進むにつれて、どんどん皆を好きになっていけますので、お楽しみに!^0^
  1. 2013/06/02(日) 21:24:27 |
  2. [ 編集]

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